小学生の卒業アルバムに書いた夢
体育の先生とバレーボール選手です。
2つ書いてます(笑)
幼少期から身体を動かすのが大好きでした。
父親も色んなスポーツで遊んでくれたおかげで、野球・サッカー・バドミントン・ラグビーなど、当時の女子がしないようなスポーツも得意だったし、だから大好きになってました。
バレーボールはずっとしたかったスポーツ。だから5年生の時にチームができた時は、嬉しくて嬉しくて。すぐに入部しました。
本当は、ソフトボールもしたくて、2つのクラブに入りたかったけど、そういう時代でもなくって。
でもバレーボールが大好きだったし、おかげで体育学科にも行けて、大切な友がたくさんできたことは、人生の宝ですね。
卒アルの夢を諦めた理由
体育の先生の夢を諦めたのは、いくつか理由があって。
・土日は休みたい。(絶対にクラブ指導があると思ったので)
・子供じゃなくて、親が大変になるかも?(学級崩壊が問題になっていた時代だった)
・信頼出来る教師が少なかった。(これが決定的。モデルケースがいなかった。)
こんなことを高校1年生くらいに考えて、進路を決めたと思います。今思えば、半分は当たってるし、半分は違うかなー。
友人に素敵な先生がいますしね
バレーボール選手を諦めたのは、本当に諦めた、なれなかった。からです。小中高とエースでキャプテンだったけど、大学に進めばレベチすぎました。
入学直後の体育祭の練習で右肩を壊したこともあり、フォームも崩れたり、あとはメンタルだったと今なら思います。「通用するわけがない。」みたいなメンタルだった。
でも、2年生の夏、めっちゃ自主練して、先輩も後輩も連日、長時間つきあってくれて、ユニフォームをもらえたことは、本当に財産ですね。そして当時の先輩後輩に心から感謝しています。
正しい努力は報われる、ということを実感しました。
そんな感じで、小学生に抱いた夢は、19歳の頃に諦めています。
体育学科から栄養学科へ
みんなが就職を決めていくなか、私は「よし!管理栄養士になろう!」と決めました。
バレーボールをしていて、「栄養」ってすごい大事なのでは?と感じていました。
でも当時はそのような教育はほとんどなかった。(自分でキャッチも出来ていなかった。)
私は、『運動×栄養』、どちらも教えられる人になりたいと思いました。
運動だけ、栄養だけ、はたくさんいるから、どちらも教えられる希少な存在になりたい。
だから、バレーボール選手になれなかった私は、栄養の専門家という立場からアスリートに関わろうと。
栄養や食事の大切さを思っていたのは、母親が小さい頃からちゃんとご飯を作ってくれてたから。おかげで168cmまで身長が伸びましたしね。
ただ、また進学するということは、また親にお金を出してもらうということ。
正直、色々と言ってくる親戚はいましたが(不思議、笑)。
母親に「管理栄養士になろうと思う。」と伝えると、ただ一言「いいやん
」と言ってくれました。この一言がその後の人生を決め、今の私がありますね。
そこから多くの大学や専門学校のパンフレットを取り寄せて、「スポーツ栄養コース」があり、「社会人入学制度」がある専門学校に決めて、サクッと合格!
2年間の楽しい専門学校生活を送りました。
始めてバレーボールがない、何にも縛られることのない、ハッピーライフ
でも、すっごい勉強しました。
そして今までほとんど参加もしたことのない、「学園祭」の実行委員長となり、学生・教員すべてが一体になる感覚を味わいました。日本一企画も大成功させました。
なぜ病院を選んだのか
アスリートに関わりたいなら、そのまま進めばよさそうだけど。
私はまず「栄養をきちんと学びたい。」と、栄養を学ぶ最高峰は病院だと。
で、2-3年で辞めるつもりが22年間も続けたのはこちら。
管理栄養士として生きる私の道
22年間、病院で働く臨床管理栄養士として、誠心誠意働きました。
私より、優秀で有名な管理栄養士はたくさんいます。何本も論文を書いたり、学会のスピーカーに何度も招聘されたり。
私にはそのような実績はありません。
でも私は、日本一患者さんとご家族に寄り添った管理栄養士だと、自信をもっています。
一緒に働いていた仲間たちに聴いても、同じことを言ってくれると思います。
これからも私は、相談者に寄り添い想像し傾聴しながら、表面的な体調のことだけではなく、思考、メンタル、考え方、生き方も含めて、人生レベルで寄り添い伴走する管理栄養士であり続けます。
人が大好きで、栄養が大好きで、管理栄養士という専門性を活かして人とを関わるために、この職業を選んだのだなと、19歳の私にありがとうを伝えたいと思います