2021年4月28日
3年前のこの日に、私たちが尊敬する緩和ケア医が旅立たれた。
最期まで医師のままで。スタイルを貫き通して。
奥さんをすごく愛していたので、最期まで自宅で過ごされ、自宅で息をひきとった。
でも、その2日前に私たちにお別れを言わせてくれたのだろう、自ら1泊私たちの緩和ケア病棟に入院された。
みんなで先生をベッドごと中庭に連れ出して、先生に大好きなタバコを吸ってもらった。
先生も私たちも、みんなニコニコ嬉しそうだった。
医師・人としての魅力
医師として、若い時から情熱と愛情とユーモア溢れる先生だった。
私が、新卒から22年間同じ病院で働く理由の、最も大きな要因であった人。
お酒、タバコ、競馬、パチンコを楽しみ、奥さんだけを大切に愛しているような人。
コロナ前は、病棟での飲み会も多くて、みんながこの先生の周りに座りたがって、医療観を語り合い、病棟をよくするための話しを熱く楽しくし続けた。
医師としての腕もすごくて、どこの病院に行ってもお手上げだった症状の病因をつきとめ、しっかりアセスメントして治療した。
患者・家族からの信頼
「先生と酒を酌み交わすのが夢だった。」
そういう患者さんは多くいて、病室で家族含めて、一緒に呑んでた。
院内だけの医療ではなく、地域の診療所、在宅訪問医療など、全てした。
昔からの大切な医療と、新しい医療や生き方にも、常に柔軟に対応した。
医師として、人間として、信頼が厚い人。
スタッフからの信頼
私たちは、本当に幸せな医療人。この先生と働けたことは、一生の宝。
今でも、「あの先生がいたなら。」と医療を考える。
『患者さん、ご家族の本当の願いは?』常にそこに立ち戻る。
医療者のエゴではなく、一人の人間として、患者さんやご家族と向き合うあり方を教わった。
だから私たちは、身ひとつで患者さんやご家族と向き合うことができた。
患者さんやご家族のことで悩めば、先生と看護師、リハビリセラピスト達と共に、何度も何度も話し合った。
カンファレンスの時間も、電子カルテの前ででも。
同じ空間で過ごすことが、何よりの学びであった。
お別れの時
夜に看護管理の人より、電話があった。覚悟はしていたけど、頭は真っ白になったと思う。
お通夜は私たちのような一般スタッフも参列可、葬儀は病院幹部のみという通達があった。
私はお通夜も行ったけど、やっぱりどうしてもちゃんとお別れがしたくて、一人で葬儀にも参列した。
慕っていた看護部長の横に座らせてもらった。
最期の「お水取り」、1番後ろに並んでいたので、ご家族以外で最期に、先生の口を大好きな焼酎(多分クロキリ)で、潤わせていただくことが出来た。感謝の気持ちいっぱいのお水取りだった。
退職を決定づけたできごと
私が病院勤務を卒業することは数年前から考えていて、でもこの先生との緩和ケア医療は、最後まですると決めていた。それが私の望む人生だったから。
そして先生が旅立たれ、グリーフを感じて過ごして、そして1週間後に「今だ。」と退職を決めた。
退職した理由はたくさんあるけれど、退職を決断したタイミングはたったひとつ。
尊敬する緩和ケア医の旅立ち。それが私のタイミング。
Not doing, But being.
緩和ケア医療をしていると、「本当にこれでよいのか?」と迷うことがある。
そんな時はいつも、この言葉に戻る。
医療の基本は、「doing」、何かをする。必要不可欠なこと。
でも本質は、「being」、お話しを聴かせていただくこと、隣にいさせていただくこと、ただそばにいること。
これは全ての人生、生き方、あり方も同様だと感じる。
愛、信頼、感謝など、見えないものが何より大切なことなのだと思う。
私の生き方や、現在の栄養メンタルコーチとしてのあり方にも、そのまま直結している。
緩和ケア病棟で得たものは、私の人生観や死生観にも多大なる影響を与えている。
今日は、病棟にある先生の写真の前に、先生が大好きだった「黒霧島」をみんなでおいてもらった。
今日もニコニコしながら、あちらでクロキリを呑んでいることだろう。
最後までお読み頂き、ありがとうございました