記事を書こうと決意したきっかけ
支援に行ったこと、ずっとまとめて記事にしたいと思っていたのですが、なかなか書くことが出来ませんでした。あの日、あの場所で出会った方々の姿や、語られた言葉、感じたこと。そのひとつひとつを、どう表現したらいいのか。
記事を書くことで、「何か失礼にあたることはないか?」そんな不安が頭をよぎりました。
でも、NHK朝ドラ「おむすび」で震災支援管理栄養士のことも取り上げられていて、私も感じたことがたくさんあった!と思い、私自身が現地で学び、感じたことを伝えたいと思ったから。
支援を通して「力になりたい」と思っていたはずの私が、実際にはどれほど「教えられた」か。支援者として現地に入った私自身が、逆にどれほど「心を動かされ、成長させて頂けたか。」それを言葉にしたいと思い、綴ることにしました。
2011年東日本大震災の4ヶ月後岩手へ

2011年3月11日、誰もが記憶しているこの日、東日本大震災が発生しました。
その衝撃は(このブログを見てくださっているみなさま同様)とても大きいもので、日々ニュースで伝えられる被災地の様子に胸を痛め、「何かできることはないのか?!募金だけでいいのか?!」と、とてももどかしく、でもただ見つめるしかできない。そういう日々を過ごしていました。
私が勤務していた病院からも、現地派遣が始まりました。任務は、医師は医療支援、他の職員は荷物の搬送や泥かき作業 ― それぞれが自分の力を尽くしていました。とても重要で必要な支援でしたが、私はその時、自分の専門性を活かして、自分の手で“栄養”の支援を届けたい。「管理栄養士」として現地に行きたい。と思っていました。
そんな中で、日本栄養士会が被災地支援の一環として管理栄養士を派遣していることを知りました。「これだ!」と思い、迷うことなく応募しました。
家族や友人の心配もひしひしと感じていました。個人として向かうので不安がないわけではなかった。でも被災地に必要な「栄養支援」があること、そして自分にもできることがあるという思いが、私の背中を強く押しました。
派遣までの準備
派遣日程は7月中旬に決まりました。それまでの間、現地の状況を知り、どんな支援が必要とされるのかを想像しながら、準備を進め、その中で2つのことを決めました。
1つ目は、「求められたことをする。」
私は「管理栄養士」として派遣される以上、現地で求められることに全力で応えようと決めました。普段の仕事で慣れているような環境とは違い、災害時には限られた物資や時間の中で臨機応変に対応する力が求められます。「自分がしたいことより、現場のニーズを第一にすること」を肝に銘じました。
2つ目は、「無力感を抱かない。」
被災地の大規模な被害や苦しむ人々を前にすると、自分の力の小ささに圧倒されてしまうのではないか、実際そのような事例も多く見聞きしていまいた。だから、最初に決めていました。どのような状況でも、自分を見失わず、自分を責めず、任務を全うするだけ。
この2つを胸に、私は心の準備を整え、派遣の日を迎えることになりました。
最低限の着替えと覚悟をもって、現地へ向かいました。

到着後の第一印象、拠点
活動拠点地

兵庫県栄養士会が借りた「遠野市」の一軒家。こちらは山間部なので、津波の被害などはない地域でした。自分たちの朝夕の食事はコンビニで調達したり、栄養士会差し入れのインスタントやレトルトの食料など。お風呂はみんなで近くの銭湯に行ったと思います。
私の担当は「岩手県大槌町」

死者数859名、行方不明者426名(2015年4月1日大槌町被害概要より)、大槌町役場の職員の方は3割の40名の方が亡くなられたという、凄まじい被害の地域でした。
到着翌日より、車で現地へ向かいました。私の支援時期は7月中旬でしたが、昨日津波が来たのかと思う感覚でした。


支援活動の内容

避難所での炊き出し支援

2つの体育館にて、炊き出し支援をさせて頂きました。1つ目では、大鍋にて豚汁と作りました。2つ目では、物資の仕分けと炊き出し支援です。避難者の方より「毎日同じお弁当だから、温かいものが食べたい。」とリクエストを頂きましたので、豚の角煮、お味噌汁、ゆで卵サラダなどを作りました。



美味しく作るのは当たり前ですが、何より気を遣ったのは、『大切な食材を無駄にしないこと』です。必要な人数分を適量作り、貴重な食材を廃棄することのないように。それをすごく注意しました。
支援物資置き場の整理


私が行った時には、かなり整理されていたと感じます。それでも医療用の栄養剤などが埋もれていたので、知識のある管理栄養士が早急に入る必要があると感じました。
また「オムツが足りない」という情報で全国から一気に集まり、体育館ひとつ分のオムツということもあったそうです。またお水は2リットルより、500mlの方が扱いやすい、という声もお聞きしました。SNSもない時代だったので、メディアの情報がいかに重要であり、うまく活用する必要があるか、ということを当時感じました。


仮設住宅への訪問

一緒に回っていた現地の年配の管理栄養士さんが「あんたは骨があるから」と、現地保健師さんとの同行を推薦して下さり、避難所から仮設住宅に移り始めた方々の訪問をさせて頂きました。
みんなで過ごす避難所から仮設住宅へ。これもそれぞれでした。
老夫婦は、自分のキッチンが出来て、料理が作ることができると喜ばれていました。また息子さんからの差し入れであるお菓子を、お茶とともに私たちに出して下さり、ニコニコとお話しをして下さいました。思い出すと今でも涙が出ます。
また別の1人暮らしの男性は、昼食に袋ラーメンを作り、半分残して夕食にと残されていました。この方には、ビタミン剤などをお渡ししました。住居の確保はあるけど、炊き出しによる栄養のある食事やコミュニティがなくなる部分もあったようです。
仲間達の存在

忘れられないのは、仲間達や現地のコーディネーターの方の存在。全国から集まった、初めて会う志をもった管理栄養士ばかり。震災支援は緊張感のあるものだったけど、拠点地に帰ってきたら心からホッとするような時間でした。仲間は今でも繋がりがあるし、コーディネーターの方には、今でも感謝の気持ちでいっぱいです。
支援を終えて

市内のホテルに泊まって1人でふりかえりをして、翌日は世界遺産「平泉」へ。国宝「中尊寺金色堂」や「白山神社」などを訪問して、神戸に帰りました。通常の生活や臨床現場に戻ったわけです。
私が支援出発前に決めていたこと。
1つ目は、「求められたことをする。」
2つ目は、「無力感を抱かない。」
1つ目は、出来たと思います。
2つ目に関して。無力感を抱きましたね。
帰ってからは、TVのNEWSでは流されていないような、津波の映像を見続けたり、家族全員を失った方のことを考え続けたり、避難所の体育館に貼ってあった行方不明者へのメモのことを思い続けたり。
現地のコーディネーターの方や、仮設住宅訪問に同行してくださった保健師さんも、大切な家族を失っていたと知ったこと。現地の人が優しくしてくださったこと。現地での表情、言葉、空気感など。
思い出したり、考えては、数週間は涙が止まらない日々が続きました。
まさにグリーフケアだったと、今思います。
災害支援を経験して学んだこと
災害は起こらない方がいいけれど、けれど、どこかで必ず起こるもの。だからこそ、その瞬間にどう動き、どう支え合うのか。
私が支援後に感じたのは、日常をいかに丁寧に感謝して生きるか。そして、人と人とが常に敬意をもってどのように支え合うか。ということです。
日常の中でも、誰かの支えになれる瞬間がきっとある。その小さな積み重ねが、人が生きる大きな力になると信じています。
私の生き方が変わるきっかけのひとつになった経験でした。