親の介護で感じる、言葉にできない悲しみ 〜グリーフという視点から〜

年齢を重ねてくると、親の介護が視野に入ったり、実際にはじまったりしますね。

「子どもなんだから、親の面倒を見るのは当たり前」
「育ててもらった感謝があるから、介護して当然」

でも介護って、そんなきれいなことだけじゃないことが多い。

そして、介護というと、通院に、食事や排泄、見守りなど、「目に見える支援」について語られることが多いです。

でも実際には、その時間のなかで、親にも子にも、「言葉になりにくい」「言葉にしてはいけないような」心のゆれが起きている。

介護は生活の支えであると同時に、喪失に向き合う時間でもあるのだと思います。

目次

「介護」って「介護」だけじゃない

介護というと、多くの人がまず「身体の世話」や「生活の支援」を思い浮かべます。通院の付き添い、食事の準備、入浴や排泄のサポート——確かにそれは介護の大切な柱です。

でも、介護の時間の中には、もうひとつの層があります。

親が少しずつできないことが増えていく。昨日まで普通にできていたことが、今日はできなくなっている。その変化のひとつひとつに、親自身も、そして支える子も、何かを失っていく感覚を経験しています。

それは「グリーフ(悲嘆)」と呼ばれるものに、とても近い。

死別だけがグリーフではありません。大切なものが、少しずつ、でも確実に変わっていく——そのプロセスの中にも、悲しみは生まれるのです

できなくなっていく親のなかで起きていること

当たり前ですが、親も人間です。若い頃もあった。青春を謳歌し、バリバリ働いていたことも。それから一生懸命、子どもたちを育てたことも。

ピンピンコロリが理想だとよく言われます。ただ、どれだけハツラツと生きてきた方でも、筋力や認知機能は少しずつ衰えていく。介護が必要になる年齢は人それぞれですが、それは多くの人が通る道です。

介護する側は、どうしてもその大変さにフォーカスしてしまいがちです。でも、親自身も、できなくなっていく自分に、静かに向き合っています。アイデンティティの喪失。親として、自立した大人としての役割を失っていく、言葉にならない悲しみ。

もちろん、プライドもある。けれども、できなくなるという現実がある。「こんなはずじゃなかった。」——そのはざまを、もどかしく感じているかもしれません。

だからこそ、介護する側にも、親の身体だけでなく、その心への眼差しが必要なのだと思います。

親を支える子の心にも悲しみが生まれる

介護するケアラーには、「介護そのもの」「親の心のケア」、そして「自分自身の心のケア」という、三つの視点が必要です。

あんなに大きく、頼もしかった背中が、丸まり小さくなっている。その姿を見た時の、チクリとした心の痛み。自分の親だけはと思っていたけれど、その現実との落差をなかなか受け入れられない——そんな気持ちを抱く方も多いでしょう。

そうして、頼りにしていた親を子が支えるという、役割の逆転が起きます。

時間と労力をかけながら介護を続ける中で、疲れと悲しみが積み重なっていく。戸惑い、時には怒りが湧いてくることもあるかもしれません。そしてその時、「こんな気持ちを持ってはいけない」という罪悪感まで生まれてしまうことがあります。

でも、それは決して弱さではありません。

喪失は、死の後だけにやってくるものではないのです。大切な人が、少しずつ変わっていく。その過程に寄り添う中で生まれる悲しみも、れっきとしたグリーフです。

介護は、喪失と向き合う時間でもある

介護は、「身体の世話」や「生活の支援」、「意思決定」を支える時間であると同時に、親も子も、それぞれの喪失と向き合う時間でもあります。

その中で生まれる複雑な感情を、まず自分自身が認めてあげることが、支え続けるための第一歩になるのだと思います。生まれた感情に、正しい・間違いはないのです。

まず、生まれた感情に、気づくこと、そして認めること。ひとりで抱えこむ必要はありません。

その感情との向き合い方については、次回お伝えします。最後までお読みいただき、ありがとうございました

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Profile

管理栄養士
臨床傾聴士
食物栄養学修士
PNTトレーナー
分子栄養学カウンセラー
アスリートフードマイスター

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