
人の悲しみには、比較的やさしくなれるのに、
自分の痛みには、なぜか厳しくなってしまう。
「これくらいで落ち込むなんて」
「もっと大変な人がいる」
そんな言葉を、知らず知らずのうちに
一番近くにいる“自分”に向けてきたことに、
私はずいぶんあとになって気づきました。
人の痛みには気づけるのに自分の痛みには鈍くなる理由
誰かの悲しみに触れたとき、
私たちは自然と足を止め、耳を傾けることができます。
でも、自分のこととなると、
「今はそれどころじゃない」
「ちゃんとしなきゃ」
そう言って、気持ちを脇に置いてしまう。
特に、支える役割を担ってきた人ほど、
自分の感情よりも、周囲を優先することに慣れています。
それは冷たいからでも、弱いからでもありません。
そうやって、生き抜いてきたというだけのこと。
自分の悲しみを後回しにするのは弱さではない
悲しみに気づかないようにしてきたのは、
それが、当時の自分にとって
必要な“守り”だったからかもしれません。
感じてしまったら、立っていられなかった。
立ち止まる余裕が、なかった。
だから、心はちゃんと考えて、
感じる力を一時的に閉じた。
それは決して、間違いではありません。
悲しみに気づくことは崩れることではない
「自分の悲しみに気づいたら、
きっと泣いてしまう」
「何もできなくなってしまう」
そう感じる人も多いけれど、
気づくこと=崩れること、ではありません。
悲しみは、無理に掘り起こさなくてもいい。
言葉にならなくてもいい。
涙が出なくてもいい。
ただ、
「これは、私にとって大切だった」
と認めてあげること。
それだけで、心は少しずつ緩みはじめます。
自分の痛みに寄り添う最初の一歩


何かを変えようとしなくていい。
前向きにならなくてもいい。
ただ、
「後回しにしてきた痛みがあった」
その事実に、そっと目を向けてみる。
それは、そうしなければ
生きてこられなかった時間があった、
ということだから。
そして人に向けてきたやさしさを、
ほんの少しだけ、自分にも向けてあげる。
気づいた今から、
少しずつでいい。
自分の悲しみにも、
そっと居場所をつくっていけたらいいのだと思います。









